キーワードは「柔らかい感触」と「心地良い揺れ」

ウィスコンシン大学霊長類研究所長のハリー・ハーローは、生まれて間もない赤ちゃんが一番欲しがるものは何か、ということを実験で調べています。もちろん人間の赤ちゃんで調べるわけにはいきませんから、生まれて聞もない子ザルが使われました。母ザルから引き離された子ザルは、代理母親に育てられます。この母親は2つの模型の母親です。1つは、直径10センチ、高さ30センチほどの針金だけで作られた円筒形の代理母親で、もう1つは、同じ大きさですか、ビロードのような厚地の布で覆われている代理母親でした。

生まれたばかりの子ザルは、2つの代理母親が置いてあるオリに入れられると、布製の母親の方にばかり抱きついていきました。そこで、針金製の母親に電熱コイルを入れて室温より5から6度温かくしてみたところ、今度は温かい針金の母親にばかり抱きついていました。しかし、こうした好みは生後20日までで、それ以上成長した子ザルは、やはり、布製の母親を好むようになりました。つまり、温かさより布の持つ柔らかい感触を好むようになったのです。

次に、針金製の母親にだけ哺乳ビンを取り付けてみました。そうすると、子ザルはミルクが欲しい時だけ針金製の母親に抱きついて、それ以外の時にはいつも布製の母親に抱きついていたのです。この結果からすると、お乳を飲ませるということか母親の重要な条件ではないことになります。ところが、同じ布製の母親を2つ並べて置き、一方に哺乳ビンを取り付けたところ、子ザルはミルクの出る方の母親を好んだのでした。針金製の母親2つでやっても同じ結果でした。つまり、全く同じ感触ならお乳の出る母親が好きであることもわかりました。

また、ゆっくり揺れる布製の母親と、動かない布製の母親を並べて置いたところ、子ザルは揺れる母親に好んで抱きつきました。以上のような実験から、赤ちゃんが母親に求めるものは、柔らかくて感触の良い肌触りと、抱っこされた時の心地良い揺れであることがわかります。これらの条件が同じであるならば、お乳を飲ませてくれる母親の方が好きになるわけです。

赤ちゃんにとって母乳の場合は、肌の接触や優しい揺れがあり、しかも、お乳がもらえるわけですから、さきほどの実験で確かめられた条件は全て満たされていることになります。ハーローは当たり前のことを確かめたに過ぎないということになるわけですが、育児の合理性ばかり追う母親や父親に重要な警告をしていると言えます。

— posted by pippin at 06:02 pm  

「肌の触れ合い」か愛情を深める!

スイスのアドルフ・ポルトマンによれば、人間の赤ちゃんは生理的な早産児として生まれてくると考えられています。生まれてから一年間の赤ちゃんは、子宮外の胎児期にいるのだとも言われています。

このことからもわかるように、人間の赤ちゃんは発達の極めて重要な時期に外からの影響を強く受けることになります。つまり、一般には、赤ちゃんとの接触の最も多い母親から大きな影響を受けるということになります。

母親から赤ちゃんへのいろいろな働きかけとそれに対する赤ちゃんの反応が、その後の複雑な人間関係の第一歩になるわけです。

母親からの働きかけは、ノドが渇いた時やおなかかすいた時に母乳やミルクを飲ませてあげることによって、あるいは、冷たくて気持ちの悪い汚れたオムツを替えてあげることなどによってなされます。ミルクを飲む時やオシメを替えてもらう時の赤ちゃんは、母親の声を聞いたり、身体が触れたりするのを楽しんでいるように見えます。

そのうちに、母親からの働きかけが欲しくなった時には、赤ちゃんは泣いて要求することを覚えます。こうした母親からの働きかけのもつ意味を明りかにしようとした実験があります。

— posted by pippin at 11:17 pm  

不安な時、なぜ「誰かと一緒にいたくなる」のか?

人は学校や職場、あるいは家の近くなどにいろいろな友人をつくります。ことに自分がとても不安な気持ちになった時には、誰か親しい人が必要になり、その人と一緒にいたいと望みます。例えば、試験の合格発表を見に行く時や、身体の具合が悪くなり、初めて病院に行く時などには、両親や親しい友人と一緒に出かける人が多いものです。このように、人が人を求める心理・・・「親和欲求」と呼ばれています。これを明らかにした実験があります。

その時、誰と一緒にいたい?

シャクターは、親和欲求を確かめるために、こんな実験をしています。実験に協力するためにやって来た女子大生は、一つの実験室に案内されます。その部屋には、医科大学のグレガー・ジルスタイン博士と名乗る白衣を着た男性が待っています。ジルスタイン博士は、この学生に、「電気ショックの心理学的効果を調べる重要な研究に協力して欲しい」と言います。そして、この実験では、いろいろな強さの電気ショックを与え、その聞の脈拍と血圧の変化を測定する、と説明します。

この後からか実験操作になります。女子大生の一つのグループに対しては、ジルスタイン博士は気味の悪い声で、電気ショックはかなりの苦痛を与えるかもしれないが、皮膚を傷つけたりはしないということを、強張った笑いをまじえて説明します。もう一つのグループに対しては、ジルスタイン博士は電気ショックはちくっと痛む程度で、たいして不快なものではないということを、親切にしかも安心感を与えるように説明します。

このような状況をつくった後で、ジルスタイン博士は女子大生に、「実験の準備をするあいだ別の部屋で待っていてほしい」と言います。この時、その待ち方として「個室で一人で待っていたいか」あるいは「他の同じような仲間と一緒に教室で待っていたいか」を尋ねました。この質問に対する答えか、この実験の目的とするものでした。実験はここで終わりになります。この実験の結果は、強い不安の状態におかれた多くの女子大生は他の人と一緒にいることを望んだのでした。

人が不安な気持ちになった時には誰かと一緒にいたいと願うことはわかりましたが、一緒にいる相手は誰でもよいというわけではありません。望ましい仲間として、自分と同じような境遇の人で、自分とどことなく性格の似た人を選ぶようです。「同病相哀れむ」という諺もあるように、似たもの同士が肩を寄せ合って生きていこうとする人間の習性を見ることができるわけです。例えば、病院で自分と同じ病気の患者と話をすると、何となく心の休まる思いがするのはこうしたわけなのです。

他の人を求める親和の傾向は、第一子やひとりっ子に強く見られるようです。このことは、依存性についての両親のしつけの仕方によって説明されています。第一子に対しては、後から生まれてきた子供に比べより多くの援助を与え、しかも、要求もより多く受け入れてしまう傾向があるので、第一子は、不安や心配のある時にはいつも親(あるいは他の人)に頼ろうとするようになるわけです。このような学習をした第一子は他の兄弟に比べて、不安になると、安心や慰めのために他の人を求めることが多くなるということになります。

では後から生まれた子供はどうかというと、さまざまな困難な問題を独力で解決しようとするので、結局大人になってから酒に溺れてしまうことになるとも言われています。ところで、人は一緒にいる他の人に、一体、何を求めているのでしょうか。第一に考えられるのは、心の安らぎということです。他の人と一緒にいるだけで自分の気持ちが休まるからです。さらに、その人からいろいろな情報を得ることで、これから起こる事態に対応しやすくなるということもあります。

もう一つ考えられるのは、一緒にいる他の人の様子を見ることによって、現在の自分の状態を知ることができるということです。試験のための会場で、一緒に受験する人の様子がやたらと気になるのは、その時の自分の精神状態があやふやなので、それを確かめようとしているわけです。このような時には、落ち着いて本を読んでいる人に注目していると、自分も自然と落ち着いてくることになります。

一般的に、人が自分の能力や性格、ものの考え方、その時どきの感情の状態などをできるだけ正確に知ろうとする時には、自分とよく似た境遇の人を比較の対象として選ぶということをごく自然にしているのです。

「一人になりたい時」の心の中は?

一方で、ごく身近な大や最愛の大に何か不幸があった時には、他の人から慰められたりするのを嫌って、たった一人で部屋に閉じこもってしまいたいと思うこともあります。1963年にアメリカ大統領だったケネディがパレード中に暗殺されるという事件が起こりました。この事件の数日後に、世論研究センターによって、この悲劇的な事件についての全国的な調査がなされました。その調査の中に、「この事件を知った時に、あなたはどうしましたか」といった主旨の質開かあります。これは、親和欲求についての質問になります。

悲報を聞いた人の54パーセントは、他の人と話をしたいと思ったと答えました。また、40パーセントの大は、一人でいたかったと答えています。一人でいたかったと答えた人の多くはケネディを深く愛しており、強い賞賛の気持ちをもっていたことかわかりました。

ここで注目されることは、自分の経験した悲しみがあまりにも強かった人は、他の人の前で自分の気持ちを表わすことをためらったということです。こうしたためらいは、感情をやたらに表わすことは男らしくないといった性役割を学習している男性において一層大きいと思われます。人が、他の人を求める欲求をもつ一方で、一人になりたいという願望ももつということは、人間の心理の複雑さを示していると言えます。

— posted by pippin at 09:31 pm  

都会の人の関心・田舎の人の関心

初めて行った田舎の街を歩いている時に、通り過ぎる人の視線が気になったという経験をおもちではありませんか。いろいろな町の人のあなたへの関心度を調べてみましょう。あなたは道の端に立っています。そして、そこにやって来る通行人が3メートルほどまで近づいたら、その通行人の顔をじっと見ればよいのです。

その時の反応によって、通行人のあなたに対する関心度かわかります。あなたが魅力的な女性でしたら、くれぐれも、場所と時間、それと見つめる相手が悪い人でないことなどに十分注意してください。

視線をあわせた人・そらした人

アメリカで4番目に大きい都市フィラデルフィアと、その近郊の町ブリンマウル、そしてフィラデルフィアから約80キロメートル離れた田舎の小都市パークスパークという3つの都市でこんな実験が試みられました。

男性と女性の実験者が、郵便局と食料品店のドアから1メートルほど離れたところに立ちます。このドアに入ろうとする通行人が実験の被験者となります。通行人がドアから3メートルほどの所に来たら、実験者はその通行人の目を見つめ始めます。その時、通行人が実験者と目をあわせたか、実験者に何か話しかけてきたかを調べます。

実験者と目をあわせた人は、実験者の立っていた場所とは関係がなく、大都市で最も少なく、田舎の小都市で最も多くなりました。また、女性の実験者に対しては、43パーセントの人が視線をあわせたのに対して、男性の実験者には35パーセントの人しか視線をあわせませんでした。これは男性に対する防衛的な行動とも受け取れます。

さらに、実験者と目をあわせた人の年齢を見てみると、実験者の性別にかかわりなくお年寄りと子供の多いことがわかりました。多分、子供と老人は比較的ひまがあり、何か変わったことに強い関心を示すせいでしょう。知らない土地でのコミュニケーションか、子供とお年寄りから始まるということがわかります。

さらに、実験者に何か話しかけてきた人の割合を見てみると、田舎の小都市では26パーセントだったのに対して、大都市とその近郊の都市では3パーセントしかありませんでした。一般的に、大都市の住民は日頃から大勢の人との間に過剰な接触があるので、必要がない限り他の人とコミュニケーションが生じるのを避けているのです。そのためには、他の人と視線をあわせないというのが最も効果的であったわけです。

— posted by pippin at 02:13 am  

 

突然の女性の悲鳴に、人間が共通して取った行動とは?

アメリカでこんな事件が起こりました。午前3時、仕事帰りの一人の女性がアパートの近くで一人の変質者に襲われました。彼女の悲鳴を聞いて、そこの住人の38人もが窓から顔を出しました。ところが、彼女が殺されるまで30分間もあったのにもかかわらず、誰一人として、助けに駆けつけもしなければ、警察に通報した者もいなかったのです。

この事件はかなり特殊なものかもしれませんか、大都市に住む人々の冷淡さと無関心を示す事件の一つでした。「自分がしなくても誰かが・・・」ラクネとターリーは、困っている人が目の前にいるにもかかわらず、すすんで助けようとしない人の心理を、こんな実験で確かめています。

実験の被験者になった男女大学生を、小部屋に案内します。そこで、実験者は、「これから数人の人と、大学生が経験している個人的な問題について話し合ってもらいます」(実は、これは表向きの実験目的なのです)と説明します。そこで、各人が他の大を気にしないで自由に話し合えるように、そして、顔をあわせないですむように一人ずつ個室に入ってもらうようにしました。

討論はマイクロホンのついたヘッドホンを使って行ないます。それぞれのマイクは順に2分間だけ作動します。誰かのマイクが作動している間ほかのマイクは作動しませんので、いつも誰かの声だけが聞こえてくるようになっています。マイクロホンのついたヘッドホンを使ったのは、後で事件が起こった時、他の人とそのことについて相談できないようにするためでした。

討論は、まず始めに実験者側のサクラが、都市生活と自分の勉強とに適応するのに苦労していると話した後、ためらいがちに、自分は勉強中や試験中にテンカン発作を起こしやすいということを告白します。次に数人の大が意見を語りますが、実は、この人たちもサクラなのです。最後に、被験者が意見を語ります。

次に、また最初の人に順番がまわります。この人は、始めのうちは平静に喋っていたのですが、突然わけのわからないことを口走り、やがて、激しく苦しみ始めます。これで発作の起こったことがわかります。実は、これは演技なのです。実験者は、発作が起こった時点から、被験者の反応を記録し始めます。

自分以外の人が大勢いる時ほど、事件を知らせる人の少なくなることがわかっています。発作を起こした病人と2人だけの場合には、3分以内に全員か報告に来たのに対して、仲間が4人もいる時には、3分たっても60パーセントの人しか報告に来ませんでした。この実験から、自分と似たような立場の人がいると、事件に対する責任が分散してしまうことがわかります。つまり、自分が報告しなくても、誰か他の人がするだろうと思ってしまうわけです。

被験者が友人と実験に参加していた場合には、違った結果か見られています。自分の知り合いがいると、その人に対する自分の印象をよくしたいと思うため、報告までの時間が短くなり、実験の終了までに全員が報告していました。知り合い同士の間には、「われわれ意識」が生じており、責任の分散が起こらなかったことを示しています。

次は、実験の始まる前に、被験者が病人役の人と知り合いになっていた場合の結果です。病人と面識がある場合には、報告までの時間が短くなり、全員が報告していることがわかりました。この場面では、被験者は自分が病人を知ってい
るただ一人の人間だと思い、特別の責任を感じていたと考えられます。

また、面識かあるので、病人の苦しみか具体的に想像でき、同情心も強く働くと同時に、後で、その病人に悪く思われたくないという思惑も働いていたと考えられます。

援助したくなる不思議な心理

以上のような事柄は、他の人に対する援助行動の一つとして、多くの研究がなされています。人に援助行動を引き起こさせるにはいくつかの条件が必要です。一つは、ラタネたちの実験でも明らかになったように、私が助けなければ助ける人がいないのだ(責任の分散が起こらないこと)という状況がなくてはなりません。

ですから、誰かに手助けを求める時には「あなた以外に頼れる人がいないので、どうしてもあなたにお願いしたいのです」という態度か必要になるわけです。

第二に、たいていの人は、自分は慈悲深くて、他の人に対して親切であると思っているので、その気持ちをうまく引き出すことです。街頭募金に協力しようかどうか迷っている人は、自分の目の前で募金に協力している人がいると、募金がしやすくなるものです。援助行動をしているモデルを見せられると、自分も援助しなければ大変冷たい人だと思われかねないと考えるからかもしれません。

職場で募金などをする時には、まず上司にたくさん寄付をしてもらってから他の職員に呼びかけるのは、こうした理由からなのです。

— posted by pippin at 01:58 am