北里柴三郎はテルモを創業した起業家だった

どれほど特殊なのかは、このごろ起きている色々な変化を見ても大体わかるが、もう少し時代をさかのばったところから検証を始めることで、より明確にその特殊さの本質を解き明かしてみよう。以下では、明治から終戦まで、戦後、平成と3つの時代区分で考えてみたい。転職についていえば、8割が一度は考えたとはいえ、戦後の人達の現実の転職率は大企業においては極端に低かった。会社が潰れてしまって止むを得ずという場合を除くと、きっとコンマ以下のような数字になると思われる。

それに比べたら、戦前は、転職する人が結構いた。しかも戦前の人たちの転職は、業界を横断して職を求めるというもので、今の平成時代よりもむしろずっと転職のスケールが大きかったのである。たとえば、テルモという医療器具のメーカーがある。連結売上高は2,440億円を超える会社だが、なんと経常利益が500億円を超える、日本でも有数の高収益優良企業だ。このテルモがどういう経緯で生まれた会社なのかをみると、なかなか面白い事がわかってくる。

テルモができたのは、第一次世界大戦(1914~18年)がきっかけだった。第一次世界大戦はヨーロッパで起きた戦争だから、日本は参戦しなかったも同然だが、基本的スタンスは、ドイツ・オーストリア・ブルガリアなどの同盟軍側ではなく、イギリス・フランス・アメリカなどの連合軍側だった。実際、日本はそれなりに連合軍を助けて、太平洋の独領諸島を日本の信託統治下に収めるなど、ちゃっかりと国益も得ている。それはよかっだのだが、この戦争のおかげて困ったことが起きた。

当時の日本には、病院などで使う体温計をつくる技術がなく、主にドイツから輸入していたのである。ところが戦争が始まって連合軍側についたため、ドイツとの貿易が途絶え、体温計が入ってこなくなってしまったのだ。そこで、日本でも体温計をつくる必要ができて、第一次世界大戦後にいまのテルモの前身が設立されたのである。

その設立発起人に北里柴三郎の名前がある。北里柴三郎博士といえば、ドイツに留学して破傷風の血清療法を開発したり、香港でペスト菌を発見するなど、わが国を代表する細菌学者である。彼が会社経営の実務までやったとは思えないが、設立発起人だったということは、今でいえばベンチャーの株主みたいなものである。

北里博士は慶圏義塾大学医学部の初代学部長であり、また北里大学をつくった医学者・教育者でありながら、日本初の体温計メーカーを立ち上げたアントレプレナーでもあったわけだ。樋口一葉も偉いが、北里先生も「お札」になるべきだろう。

— posted by Chapman at 11:58 pm