高度経済成長を知っている人たちほど思考を切り替えるべきだ

元銀行マンの彼がどんな決断を下すのか知らないが、相談を受けた時に言外に思いきって転職するよう勧めている。仕事への情熱が消えていないということは、それこそが、間違いなく彼の選択すべき道だからだ。もし、不幸にも彼に会社人間的な生き方が染みついていて、子会社にとどまる選択をした場合、二重の悲劇が待っていることにもなりかねない。

それは一つに、やりたいことをやらずに会社人生を終わらせる後悔が、事あるごとにチクチクと彼の心をさいなみ続けること。もう一つは、かなりの確率で予測されるもっと現実的な悲劇だ。すなわち、いくら大銀行の子会社とはいえ、再編・統合・整理の可能性は大いにある。むしろ銀行の子会社だからこそ、親会社に何かあればすぐに影響を受けることは間違いない。

ひるがえって、いまから社会人としての本格的な人生が始まる若い人たちには、これからは会社人間的な生き方は絶対のタブーである、とここに断言しておきたい。いまあなたが30歳だとして、もしこれからも会社人間的な発想で生きていくと、だいたい15年から25年後には、ほとんどの人が「こんなはずじゃなかった」という目に遭うことになる。

しかも、いままでと違って、あなたには行くべき子会社もない。そのとき、あなたにサラリーマン気質が残っていて、ビジネスパーソンになりきっていなかったら、つまり年齢相応のワザも経験も持っていないとなったら、これはもう想像するだに恐ろしい悲劇である。しかし、逆にあなたが一流のビジネスパーソンとしての経験とワザを蓄積していたなら、すばらしい人生が待ち受けているはずだ。

要は、これからの生き方さえ間違わなければいいのである。ここで言葉を使い分けたのは、戦後の日本的企業社会を生きてきた人たちをサラリーマンと呼び、これから日本のビジネス界を生きていく人たちをビジネスパーソンと呼んで、区別したいからである。まさしくビジネスパーソンとして生きて自分を磨いていった人は、いまの時点では想像もできないような高収入を手にすることができるだろう。

たとえば、金融大再編前の大手都市銀行で、50歳くらいの部長の年収は2000万円程度。それでも多いと思われるかもしれないが、これからは、そんなケチな話ではあなたの人生は終わらないのだ。くだんの銀行マンも転職先での活躍次第では、年収3000万円、5000万円も夢ではない。事実、数年前、とある銀行マンをある大手ソフト会社に紹介した。最初は「平取締役で」とシブイことをいっていたが、わずか3年のあいたに常務、専務と登用され、年収も3000万円を超え、いまではとても感謝されている。

早ければ30代、40代のうちに、年収1億円を手にすることも十分可能になる。対して、従来のままの会社人間的な発想で生きてしまう人は、いずれ会社が放り出したいような社員になるだろう。かといって、会社としても社員をむやみに放り出すのは世間体が悪いから、昇給
も昇進もなしという条件で雇ってくれるかもしれない。もしかしたら入社20年経っても年収500万円という人が出てくるだろう。コインの裏表そのままに、これからは収入面では極端な二極化が進むというのが、私の読みである。

そうはいっても、こんなことをにわかには信じられない人が多いかもしれない。すでに20年も前から、いま現実に起きている変化、さらにこれから日本が向かう方向について、友人や同僚に語ったりしてきた。いまのところ、それらはほとんどすべて当たっている。しかも有言実行で、しゃべったりしてきたことを実際の行動に移してきた。しかし、当時は、「彼の言っていることは現実離れしている」とか「そんな話は信じられない。経営コンサルタントだから、勝手なことをいえるのだ」という批判も受けた。ところが、そういった人たちも、いまは私と同じようなことをいっているのだから、どちらが正しかったかは自ずとわかるだろう。

そこで何も自慢するわけではないが、ここで改めてもう一度、時代をどう読んできたかを振り返り、これからどうしたらよいかを残しておきたいと思ったしだいである。ドリームインキュベータ(以下、DI)の社員たちにも、「ものを考えるときには、長い時間軸をとって過去をさかのぼれ」といっている。ただし、過去の延長線上に未来はない。未来は単純に過去の延長線上にはないけれども、過去をつぶさに検証しなければみえてこないのだ。

多くの人は、過去の検証もせずに、過去の延長線上にそのまま未来があると思っているから、未来を見誤ることになる。たとえば、バブル経済真っ盛りのとき、戦後の高度経済成長を知っていた人たちほど、右肩上がりの延長上に日本の未来があると考えた。せっせと株を買い、不動産を買ったのは、そういう人たちだ。ところが、日本経済は急転直下、地獄に落ちた。

何も、これから上に何度、あるいは下に何度の角度で日本経済は進むと、そこまで正確に読めといっているのではない。第一、そんなことは人間には不可能だ。これからは上に向かうか、はたまた下に向かうか、その程度のことがわかれば十分なのである。

— posted by Chapman at 04:25 pm  

 

日本の大企業の子会社は姥捨て山に等しい

前の記事で紹介した彼らのように、子会社に飛ばされることを潔しとせず、自ら新しい職を求めて成功したケースは、わずか十年前の日本でも滅多にない。理由のいかんを問わず、日本の企業社会では、社内の役員レースに敗れたことが確定した時点で、子会社に転出し、そこで定年までのサラリーマン生活を送るのが当たり前の路線になっていた。

そもそも日本の大企業の子会社というのは、姥捨て山とまでいうのは失礼にしても、出世レースから弾かれた人たちを受け入れるのを主な目的としてつくられたものが多かった。また、前の記事で登場した将来の社長候補だった彼が突如として本社から追い出された理由は、それこそ単純明快。後ろ盾だった社長が会長になり、やがて経営から身を引いて、社内に影響力が及ばなくなったとたんの出来事だった。

彼が社長の「お気に入り」だったがゆえに、役員たちの「いつかあいつを飛ばしてやる」という怨念が、ここぞとばかり吹き出したわけである。過去、日本の会社では、こういう人事が日常的に繰り返されてきた。いや、いまでも相変わらず繰り返されている。こうして「刺されて」本社の出世ラインから外された者は、子会社や関連会社の社長や役員として飼い殺しの目に遭い、そこでくすぶって不満タラタラの余生を送る。

とはいえ、負け組の熔印を押されたという屈辱に耐えさえすれば、65歳、場合によっては70歳まで、老後の不安を感じることなく生活できる。退職金も二度もらえる。また、社風の違う会社に転職するより、親会社と同じ社風を持つ子会社の居心地はまぁまぁよいし、仕事もそんなに忙しくないから、サラリーマンとしての余生を送るには捨てがたい魅力もあった。

だから、本社の役員になれないとわかって、生きる情熱が一気に冷めてしまった人や、どこかに転職するにも売り物になるワザや経験がないと思った人は、辞令にしたがって素直に子会社に転籍していったのである。ところが、彼の場合は、当時は希少価値ともいえた「英語をしゃべれる経営者」だったから、充実した第二の人生に巡り会うことができたといえる。

先の例に出した二人の元銀行マンも、従来の大企業のルールに準じて、「キミは役員レースから脱落した。さあ、どうする?」と決断を迫られたことになる。友人である銀行マンは会社に見切りをつけて、転籍を拒否して銀行とは関係のない会社に移った。一方、そういう受け皿のない元銀行マンのほうは、いったん辞令を受け入れて子会社に移ったが、まだ仕事への情熱が十分に残っているだけに、今後についてあれこれ悩んでいるわけである。

彼らの悲劇は、銀行を取り巻く環境が大きく変わって、思いもかけなかった金融大再編が起こり、役員の椅子が半減してしまったことだ。とはいえ、もし金融大再編が起こらなかったとしても、彼らが順当に本社の役員になれたかどうかは、まったくわからない。じつは、日本の大企業には妙な力学が働くことがままあり、銀行始まって以来の最年少支店長とか、若いときに大型プロジェクトを成功させたとか、海外で大きな実績を残したとか、いわば華々しい活躍をした人、目立つ人ほど、意外と出世しないのである。なぜなら、先輩に嫌われて
しまうからである。

信じられないかもしれないが、先輩の役員の一人に嫌われただけで、役員候補から外されるという人事がいまでも行なわれている大企業はいくらでもある。ただ、さすがに大銀行である。こんな時代になってもなお、子会社に座る椅子を用意してもらえるだけ、彼らは恵まれているといっていい。いまでは一流メーカーも、役員レースに敗れた人たちを養っておくための子会社をどんどん清算しているからだ。いずれ、その種の子会社はほとんどなくなるだろう。

つまり、大企業に勤める多数のサラリーマンにとっての現実は、会社から「もうオマエはいらない」といわれたら、その時点で問答無用、イヤでも次の職場を探さなければいけない。子会社への転籍に満足できないなどというのは、いまや大銀行のエリート行員で役員候補だった人たちだけの、ある意昧でぜいたくな悩みにすぎないのである。

— posted by Chapman at 04:12 pm  

日本の会社にこだわっていた自分がバカだった

そうかと思えば、こんな対照的な例もある。これは知り合いの話である。彼は京都大学法学部土竿業後、大手海運会社に入社した。この会社には超ワンマンの実力社長がいて、会長になってからも縦横無尽に権力を振るったのだが、たまたま彼は入社後しばらくして、その社長にたいへん気に入られることになった。で、オマエはいつもオレの身近に居ろということで専属秘書役のような役割をおおせつかった。

朝、社長が出社してくると、今朝の新聞にはわが社関連の記事がこういう具合に載っていました、世界情勢はこうなっています、為替レートはこうですと、昔でいえば殿様の御進講役みたいなものを務めたのである。社長の絶対的な威光があるから、彼はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで名前が社内に知れ渡り、常務クラスでさえまだ若かった彼にペコペコする人がいたくらいだ。そんな生活を送るなかで、彼は自分か将来の社長候補だと思い込んでいたのだが、その実力会長が引退してしばらくしたら、突然、子会社の社長に飛ばされることになった。

望んでいた本社の社長の椅子どころか、彼は取締役にも残れなかったのだ。その子会社も一応海運会社だが、なんと船を一隻しか持っていなかった。ただし、その船は政府が調査船として借り上げているから、確実に収益が上がって食うには困らない。その代わりに彼が社長としてやるべき仕事は何もなかったのである。これはあまりの仕打ちではないかということで相談にやってきた。彼は学生時代、外交官試験を受けるつもりで英語をよく勉強していたし、海外留学も経験していたので、こんな提案をした。

「お前、英語ができるんだから、思いきって外資系の会社に勤めたらどうだ」

「いいけど、どうすればいいんだ」

「ヘッドハンティング会社に登録したらいい」

「そんな方法があるのか」

そこで紹介したヘッドハンティング会社に彼は登録に行った。登録したら、すぐにいくつものよいオファーがきて、彼は世界でも1、2を争う海運会社の日本法人社長になった。そこは何十隻いや何百隻も船を持っている。水を得た魚よろしく、彼はその会社でバリバリ活躍し始め、収入のほうも3倍から4倍に増えたと大喜びしてこういった。

「いやぁ、あのときのアドバイスにしたがって、本当によかった。日本の会社にこだわっていた自分がバカだった。いまのほうが収入だけではなく縦横無尽に活躍できてナンボも幸せだ。まして、あんな子会社の仕長なんかにならないで絶対に正解だったよ」

NTTドコモで不動の本命、社長候補といわれていた津田志郎さん(元副社長)も同じような心境だったのだろう。ドコモの子会社の社長ポストを潔しとせず、ボーダフォンの社長兼最高経営責任者(CEO)に転籍して世間を驚かせたが、当人の気持ちはサラリーマンをした人ならある程度わかるのではないか。

— posted by Chapman at 11:21 pm  

 

会社一筋に滅私奉公してきたエリートは意外にもろい

昔からの友人にもやはり同じような境遇になった人がいる。彼も周りから「できるヤツ」と言われていた。東大を出て某一流銀行に入行して海外の支店長や本部の部長を歴任した絵に描いたようなエリートだった。ところがこの銀行も合併してメガバンクになった結果、彼も役員になり損ねたのである。

どこの銀行にも月に一回発行される行内報があるが彼の勤めていた銀行の行内報にはその月に退職する者が一行コメントを書く欄がある。彼は役員になれなかったのがよっぽど腹に据えかねたらしく何と「こんな銀行に勤めてバカをみた」と書き残したのである。普通こんな捨て台詞を書く退職者はいないから当時は行内だけではなく外部でも大いに話題を呼んだものだ。わざわざ一部取り寄せてみて読んだが本当にその通り書いてあったのでビックリした。

実は相談しに来た彼も私の友人の彼も同じようなことを語ったから驚いた。それはこういうことである。「なまじ同期の出世頭にならなかったらオレもきっと40歳くらいで見切りをつけたんだろうけれど役員の芽があると思ったからここまで引きずってしまった」ちなみに行内報に「バカをみた」と書きつけた友人は幸いにもお坊ちゃんの生まれだったためお祖父さんが創業した会社に移り、今は代表取締役の一人に名を連ねている。最近は「若い人のために上の年寄り役員たちにどう退いてもらうかだ」などと怪気炎を上げるまでに元気になってホッとした。

この友人は運良くよい転職先があったからハッピーとして、会社一筋に滅私奉公してきたエリートは自分は必ず偉くなれるんだと信じて頑張っている。ところが最後に来て「あれ?」と思った時にはもうあまり選択肢が残されていないというケースが圧倒的に多い。というのは、お付き合いのある経営者から「こういう人材が居たらぜひ紹介してくれ」と頼まれることが少なくないのだが、最近はその条件として「40歳前後で例えば経営企画部長が出来る人はいないか?」などと必ずと言っていいほど年齢制限が加えられるようになったのである。

ひと昔前なら50歳を超えていても全く問題はなかった。まして子会社の役員に飛ばされた前述の彼にしても支店長や部長の経験があるわけだから「喜んでお引き受けします」という会社が多かったのである。ところが昨今は50歳を過ぎると極端に「売れ行き」が悪くなるのだ。つまり採る側の発想が変わったのである。40歳ぐらいだったら使いやすいし十分に体力もあるし、そんなに変な癖もついていないなど色々な面でメリットがあるというのである。採る側がそう考えている以上、条件に合わない人が転職しづらいのは仕方がないだろう。だからこれからは早め早めに決断していかないと「オレは最後の最後によい人生をまっとうできずに終わった」という憂き目に遭うことになる。

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※お申込み後、ご契約手続きをせずに11日以上経過した場合、再申込みが必要になります。ご注意ください。
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— posted by Chapman at 11:09 pm  

順調にエリートコースを歩いていたが銀行合併の嵐で年収が激減

ある銀行マンがやってきた。彼はいま50代前半である。彼とはもう20年ほどのつきあいになる。まだボストンコンサルティンググループ(通称BCG)で駆け出しの経営コンサルタント時代、大手自動車会社のコンサルティングをしていたときだ。どこからか私の名前を聞きつけて、コンサルティングの仕事をいろいろ教えてくれと訪ねてきたのが始まりである。

当時の彼は大手都市銀行の調査部にいたのだが、まだ社会的に認知されていない経営コンサルタントという仕事に興味を持って訪ねてくるくらいだから、なかなか勉強熱心な銀行マンだったといえる。実際に彼は、その後、順調にエリートコースを歩いていった。若くして地方の支店長に抜擢された。その銀行の歴史上いちばん若い支店長の誕生だったという。

東京に戻ってからも、40代のうちに2つの部署で部長を務めた。これなら「自分は出世コースに乗っている」と思ってしまっても無理はない。ところが、やがて銀行合併の嵐がやってくる。合併さえなければ、役員になるのは間違いなしといわれていた彼だが、その夢も消えてしまった。日本の大企業では、彼のように本社の役員になれなかった者たちは、子会社に移るのが一般的なパターンである。

彼も今年、子会社の執行役員に転籍することになった。その子会社は業績の悪い会社ではないし、来年には常務になれそうだが、仕事自体は自分のキャリアを活かせるものではなく、働きがいも感じないという。しかも、問題は年収が大幅ダウンしたことにある。じつは大手都市銀行の部長時代には2000万円あった年収が、合併でメガバンクになったにもかかわらず1600万円に落とされ、さらに子会社に移って執行役員になったというのに1200万円に下がってしまったという。それでも世間からみれば、このご時世にリストラに遭うこともない彼は、恵まれているほうだし、年収も決して少ないわけではない。常務になれば、年収アップも期待できる。

ただし彼のプライドが現状に満足を許さないらしい。銀行に残っている元の部下たちをみると、「そんなに大した能力を持った連中ではなかったのに」と彼が思っている人たちがM&A(企業買収)で活躍したり、VC(ベンチャーキャピタル)などのファンドを運用して何百億円という資金を動かしている。彼らにできるのなら、オレも転職してそういう仕事をしてみたい。あるいは、長年やってきた調査のキャリアを活かして、どこかのメーカーの役員に招かれて、経営戦略を練るような仕事をやってみたい。そんな希望がふつふつと湧いてきて、私のところに相談にきたというわけである。要は、「クライアントのなかで、よい転職先はないか」といっていることはよくわかった。

— posted by Chapman at 10:57 pm